明治元年 赤羽小学校,赤小,東京都北区,小学校,赤羽,あかばね,akabane,喜屋,きや,赤羽駅,岩淵,第一
明治2年 東京府 府立小学校設置 芝増上寺内の私塾などを買上げて
明治3年 府がほかに小学校6校開設計画
明治4年
明治5年 学制発布
日本の公教育の夜明けはこの学制発布によります。明治5年8月2日、政府は『学問ハ身ヲ立ルノ財本共云ヘキ者』として『必ス邑(ムラ)ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス』ために全国に公立学校を設けて、教育を普及させるよう太政官名で布令しました。その内容は、仏米の学校制度を参考にして、全国を8大学区に分割してその中に32中学区210小学区を置くものとする、各府県に人口に応じて国庫金を配布する、というものでした。人口600当たりに1校、学児1名に対して9厘で、単純計算をすると、全国の自治体に53,760の小学校を設立せよ!という壮大なもので、結果的には明治12年の教育令の制定によってその構想は後退しました。しかし、そのとき出された太政官布告「被仰出書(オオセイダサレシヨ)」は身分階級(華族士族平民)を越えて自立自尊のため国民皆学の理念を説いて大きく教育の必要を感じさせるものでした。
明治6年 寺子屋教育
当時の初等教育を探ってみると、寺の僧や学問経験のある士族(旧武士)たちが子供たちを寺に集めて教える寺子屋(家塾)が主流でした。明治6年に既存の寺子屋の状況を調査した「家塾明細書」が残っています。改めて開学届けを提出させて「学校」として認可を与えたものです。赤羽あたりの記載を抜粋しますと、
  • 第四大区壱七小区 稲付村五拾六番地 鳳生寺鑑寺 小林大豊 生徒人員6歳〜16歳男16女5
  • 第四大区小壱七区 稲付村弐八番地弐八番屋敷 法真寺住職 稲妻日孝 生徒人員8歳〜11歳男6女3
  • 武州豊島郡第四大区小一七区 下村参拾六番地 新義真言宗西蓮寺住 田中浄門 生徒人員8歳〜15歳男30女16
  • 第四大区小十七区 豊島郡袋村九拾九番屋敷 宮森六左衛門同居 諏訪神社旧神主 宮森広義 真頂院従学 生徒人員6歳〜16歳男27女16
  • 第四大区壱七小区 豊島郡神谷村五拾壱番屋敷 農島村膳之丞 生徒人員6歳〜13歳男9女8
  • 武蔵国豊島郡 第四大区小十七区 十条村弐百四拾番地 新義真言宗真光寺住 会田義盈
  • 第四大区小ノ十七区 稲付村弐〇番地 普門院にて 生徒人員9歳〜15歳男13女6
  • 第四大区十七小区 豊島郡赤羽村九拾九番屋鋪之内借地 安藤福蔵 生徒人員6歳〜14歳男5女3
都心部には各大名お抱えの藩校が残っていたり有力私塾が存在したりしましたが、完全な農村部のこのあたりには手習いだけの寺子屋しかありません。二月の初午の日が新規の入門日となり、だいたい7〜8歳から受け入れたようです。はじめは「いろは」の読み書き、そろばんからはじめ、やがては往来物と呼ばれる市販教科書類を書写するのが勉強でした。8時に始まり2時まで、昼食は家に帰ってとり、正月休み盆休み,各節句や潅仏会などの行事、夏の早朝稽古、冬の寒稽古と、楽しみごともけっこう多かったようです。往来物の種類を見ると、商売往来、消息往来、俗用往来、東京往来、百姓往来、護身往来、女大学などが見え儒学や漢籍の初歩も教えたようです。入門料(束脩)や月謝は決まりはあったが家によって払えたり払えなかったり。また半年に一度畳銭炭料、五節句・盆暮の付け届けなどが賄いでしたが、多くは村による支援が頼りでした。机や半紙墨などが現物で持ち込まれたり、先生は村人からも師匠と慕われ、稲付村の鳳生寺住僧小林大豊のように村民から強く請われて開塾する(M2)など、家塾と村落社会は親密なつながりをもっていました。
明治7年 公立荒川学校創設
第六小区戸長小田切重路(岩淵本宿町)は、三浦観樹子(梧楼 長州閥陸軍軍人 後年政界の黒幕とも 小田切の姻戚)の当地視察訪問を受け、その際つよく開学を勧められて学校設立を決意しました。 7月、はじめは私立学校(「いろは学校」を訂正して「荒川学校」)として出発しましたが、制度上、地域住民の経費で維持できるなら「公立」の名をつけて府の管理で公立学校とすることができる、ということで、早速、六小区内の各村(王子村 豊島村 神谷村 下村 岩淵本宿町 袋村 赤羽村 稲付村 上十条村 下十条村 小豆沢村 本蓮沼村)の長(副戸長)と相談の上、公立荒川学校として東京府に再申請するに至りました。こうした機運はほかの地区でも同時に起こり、同学区でもいまに続くいくつかの小学校、紅梅小学校板橋小学校(明治7年)などがこのころ誕生しています。また、これより以前、学制発布前にも東京府は5、6の私塾を府立小学校に採用しています。
こうして 明治7年9月、第六小区内最初の公立小学校、東京府第九大区第六小区連合公立小学校、学区では第一大学区第四中学区第六番公立小学荒川学校(のちの王子小学校)が誕生しました。場所は区務所所在地であった上十條村西音寺境内で、本堂の左手に区務所があり、右手に21坪板の間の仮校舎を建てました。学区取締に小田切戸長、学校世話掛に上十條村総代副戸長の高木義範があたります。 6歳就学の、下等4年上等4年の8年制で、開校当初は児童数15名でスタートしました。

既存私塾の処置
公教育に統一しようとする明治政府の意向にとって、私塾教育になれた社会を転換してゆくのが問題でした。県によって、これらをすべて廃止させて公立学校のみとする施策や、私塾を公立学校に昇格させる施策がありましたが、東京府の場合、公立と私塾を当面併存させてゆく方向でした。東京ではいまだ新政府を容認しない空気が強く、国民に対する維新改革が連続しておこなわれたので府知事大久保一翁はここで柔軟な判断をしました。私塾を今まで通り存続させ、希望で私立小学校に改めるならこれを許可し、府庁内に教員の講習所を設けて私塾の師匠達に新学制にふさわしい教員の養成を施すなどです。
しかしながら、遠来の洋学に走る学校より旧来の私塾の方が実学として即効性があり、8年制とあっては農家や平民の家庭事情としては長すぎると、学制に基づく公立学校には反発も多くありました。荒川学校は翌年には児童数51名になり、徐々にふくらんでゆきますが、当初は戸長や副戸長が自ら各家を廻って入学を説いて歩いたということです。「寺子屋の就学児参百弐拾四名・・・」、とM8.3.31の勧誘に勤しむ学区取締小田切の私的なメモが残っています。
明治8年 10月19日 豊島村紀州神社そばの観音堂に第十二番公立小学豊川学校開校 児童約40名
明治9年 赤羽小学校の誕生
「荒川小学校」とは、荒川より内側を学区域にしているという意です。すなわち王子村 豊島村 神谷村 下村 岩淵本宿町 袋村 赤羽村 稲付村 上十条村 下十条村 小豆沢村 本蓮沼村の12町村ですが、児童増加と通学距離の関係から、もう1つ豊島村に豊川小学校を開いて、荒川小学校を稲付村香取神社北辺に移転して区内2校制を計画しました。しかし東京府は、豊川小の新設は認めたものの、荒川小の移転については、すでに出来た学校に更に移転費用の補助金(借用金)500円の申請には許可を出しませんでした。ならば3校制ということになって、荒川小を移転させずにもう1つ学校を創立することになりました。
明治7年荒川小学校、8年豊川小学校に続いて、明治9年に赤羽小学校が開かれました。
赤羽小学校の設立申請書は以下の連名で出されています。
  • 第九大区六小区
    • 赤羽村 副戸長 田口権左衛門
    • 岩淵本宿町 副戸長 佐野政右衛門
    • 袋村 副戸長 松沢内蔵次郎
    • 六小区取締兼戸長 小田切重路
    • 学区取締 河合親泰
当初から赤羽岩淵袋の3村連合で創立を目指したようです。稲付は荒川小に通学可能で小林小(後出)も人気があり、下村には田中小が、ともに私立でありました。
初めは名を「境川小学校」と予定されていました。これは荒川小にも豊川小にも言えることですが、学校運営費が各村共同負担のため、特定の村名をつけるのが困難だったことによりますが、しかし「境川小学校」は設立願提出段階でぎりぎり、上に紙を貼って「赤羽小学校」と朱筆訂正されて提出されています。
明治9年8月12日認可が下りて、六小区内3番目の公立学校、
第一大学区第四中学区第十七番公立小学赤羽学校
と称されました。場所は
東京府第九大区第六小区赤羽村99番地、岩槻街道沿いの鳳生寺の末寺で当時無住無檀だった福寿院を改装して、建坪22.5坪・校長以下教員1名・児童数55名で赤羽小学校は開校されました。初代校長藤田正信のもと9月12日に開校式が挙行されています。明治9年といえば上野公園が開園、新橋品川間鉄道が複線化、大蔵省抄紙部王子工場が創立した年ですが、まだ不平士族の叛乱や政府要人の暗殺が多く、廃刀令が出されたり、東京の町風景は江戸時代そのもので、老人たちにはまだちょんまげ姿が少しは見られた時代かもしれません。本郷に東京大学が設置されたのもこの年です。

設立認可を受けるときに府庁に差し出した校舎の図面があります。
これによって最初の赤羽小学校の位置を推理してみたいと思います。
イ.地図で右肩に"岩槻往還"と編集者の加筆があります。おそらく図面からはみ出ている部分を説明書きで寄せたものでしょう。岩槻往還とは岩槻街道で、王子十条から清水坂を下ってくる稲付通りから西口駅前に出て、今の線路をまたいで東口の当店喜屋の前の本町通りをさらに北に進み宝幢院まえを右に折れて岩淵川口に向かう、江戸時代以前からある街道です。明治以降も当地の最主要道路で民家が集中していたことから、道筋の変更が難しく位置は今とさほど変っていないと思われます。
ロ.小学校(福寿院)の位置は、赤羽村内であり、街道の東側であり、しかも鉄道敷設上である。(明治16年赤小は上野熊谷間の鉄道敷設の用地に掛り宝幢院に移転を余儀なくされます) ただし当時鉄路は単線であり、現在ように広い横幅ではないでしょうから、学校敷地が全部が掛かってしまったというほどではないでしょう。
ハ.不明なのは南西から北東へむかう街道筋と南北の鉄道がどこで交差したかなのですが。そこの地点の道の東側こそが赤羽小学校発祥の地といえます。2年後明治18年に現在の200m北側に旧赤羽駅ができます。そこは西側崖の下ですから、どうしてもそれより南。稲付赤羽の町境と、また現在の西口稲付通りと東口本町通りの自然な繋がりのラインを引いてみると、現赤羽駅よりも北。つまり本町通りの片側町の部分、(まことに我田引水にお付合い頂きましたが)当店のまん前あたりかと・・・・。

代用小学校 私立小学校
東京府は、近代教育推進のためには悪とも呼ばれた私塾の存在を、民情を鑑みて温存し、私立学校に引き上げる政策を取りました。公立学校の設立を極力抑えたために、当時、東京府の公立私立の比は他県にくらべて飛び抜けて私立学校の数が多く見られます。公立といえども授業料の徴収はあり(「悉ク民費ニ委ス」 月謝は全国一律50銭)、私立学校の多くは簡易4年修了制を敷いていたり農繁期を休校にするなど、学制による理想よりもまだ実情に則した面を持って人気がありました。結果、稲付村の小林代用小学校(小林大豊 鳳生寺)、下村の田中代用小学校(田中浄門 西蓮寺)などが村住民の熱意で生き残った。しかし、学主の個人的人望が存続の基だったために、やがて明治30年頃までには順次廃校してゆきました。
明治10年 荒川小学校のその後
荒川小学校はその後明治10年4月に西音寺改築のため上十条雪峰庵の仮校舎を経て9月に王子亀山の王子抄紙外人社宅地に移転。明治12年に十条側の児童のために元の近くの真光寺に分校を設置。明治11年の大区小区制廃止と連合町村制によって王子村区域の単独経営となったため、明治17年5月、晴れて「王子小学校」と改称。同年分校のほうに荒川小学校の名を残しています。40年に現地に移転。
明治11年 府下郡区町村編成法により大区小区制廃止、郡制施行
東京府北豊島郡赤羽村99番地
東京府北豊島郡公立赤羽小学校 と改称 岩淵本宿町袋村赤羽村連合会で維持
明治12年 教育令 五節句祝日を否定 天長節神武天皇即位日を祝日化
第19条 学校ニ公立私立ノ別アリ 地方税若クハ町村ノ公費ヲモッテ設置セルモノヲ公立学校トシ、一 人若クハ数人ノ私費ヲモッテ設置セルモノヲ私立学校トス
第13条 児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トシ父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ 得セシムルノ義務アルモノトス
第43条 凡学校ニオイテ授業料を収ムルト収メサルトハ其ノ便宜ニ任スヘシ

二代校長 佐口 銜
佐口 銜(かん)について
千葉県出身の士族。維新で武士の地位をとかれて千葉で従学ののち赤羽に流れ着い て、赤羽村90番地農家田口鉄五郎宅に寄宿。ここにて塾を開くべく明治6年に27歳で開学願いを府に提出した。荒川小が開校すると臨時で雇われ、熱心さが認められて同校の代用教員(授業生)となる。 その後、資格試験に合格して10年1月に正規教員(准訓導)。同年8月赤羽小転任を経て12年33歳で同校長に就任。しかし長年の窮乏生活にすっかり身体をこわして13年には退任。この人の、お武家様から教員へうまく転身を果たしながらも時流に翻弄された経歴を「北区教育史 通史編」では初期の一教員像として一項をもって紹介している。
明治13年 この年、東京府の小学校数516校 うち公立71校 代用445校
明治13年の散歩道
明治14年 文部省よりはじめての音楽教科書「小学唱歌集初編」、 「蝶々」「蛍の光」などあり
明治15年
明治16年 1月 現在地(福寿院)が鉄道の敷接用地にかかったので、北豊島郡赤羽村468番地真言宗 宝幢院境内へ移転。5年間予定の仮移転につき宝幢院は「借家料ヲ要セス」とあります。
届出書に 赤羽村戸長丸沢福太郎 岩淵本宿町戸長佐野守之助の署名

この図面はこの年のものではなく、M36に火災にあったあとの再び仮教場にした時のものですが当時の雰囲気だけでも。不明瞭の線など加筆あり
明治17年
明治18年 小学校令発布
尋常科6〜10才 4年義務教育 高等科11〜14才まで
「児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トシ父母後見人等ハ其学齢児童ヲシテ普通教育ヲ得セシムルノ義務アルモノトス」
かつての学制発布は福沢諭吉の「学問のススメ」とも相応するような開明的な性格をもっていたが、この小学校令に至って内容が国家主義的な教育に偏って行き、やがて教育勅語発布を迎えたとされます。
明治19年 「君が代」を国歌と制定
明治20年
明治21年
明治22年 大日本憲法発布
市制町村制で岩淵町成立 傘下に赤羽 袋 下 稲付 神谷村
東京府北豊島郡岩淵町立赤羽尋常小学校
児童数300名 児童数の増加につき岩淵町戸長小田切重路尽力して町の有志より壱千円 募金。9月30日宝幢院境内に新校舎完成
明治23年 10月30日 「教育ニ関スル勅語」 明治天皇より文部大臣芳川顕正に下付
翌日、勅語の精神を教育の根本に据えるよう文相訓示が添えられて発布。翌年より文 部省は勅語の謄本を全国の小学校に公布し始め、訓令によって天皇皇后の御真影とと もに「校内一定ノ場所ヲ撰ヒ最モ尊重ニ奉置セシムヘシ」と義務づけられた。昭和にど この学校にも見られた奉安殿(庫)の設置は強制ではなく、むしろ学区域の有志による 寄贈が多かったが、焼失汚損など不敬の禍を被る場合を考えれば積極的に建てざるを えない。また勅語の内容を最もよく体得させるには修身科がよく、「修身」教科書の国 定化が諮られやがて国定教科書の時代へ移る。
明治24年 1月府立一中の始業式で内村鑑三教育勅語に拝礼せず
7月東京音楽学校の卒業式で始めて君が代歌われる
式日 大祭日の儀式次第の細かな規定
全国統計 就学率50.3% 大正6年には98.7% 明治30年代より児童数に男女の差なし。
明治25年 学年始期制 学年度が4月1日より3月31日まで
(明治41年漱石の「三四郎」では9月1日が東大の新学期となっているが。官立大学は別の制度か?)
追記・大正9年7月東京帝国大学(学部制総合大学)となり翌年度より学年開始を4月に変更決定
明治26年 町立赤羽尋常高等小学校分校設置申請書 北豊島郡岩淵町長小田切重路
児童数増加と通学距離、また不就学児救済の問題で、4月岩淵町大字神谷1175 自性院内に分教場設置(のちの神谷小学校) 3年生まで通学、4年生から本校通学
明治27年 日清戦争開戦
御真影複写版奉置。王子小など周辺各校とともに許可を得て。
ただし奉置施設が不完備のため府会議員佐野守之助宅倉庫に
明治28年 高等科設置 2学年制
明治29年 このころから式日式典には周辺軍施設より陸軍士官列席を恒例とす。
明治30年 宝幢院境内校舎を2階建に
明治31年 高等科を4学年制に
当時の学科課程
  • 尋常小学校
    • 必修科・・・・ 修身 読書 作文 習字 算術 体操
    • 随意科・・・・ 図画 裁縫
  • 高等小学校
    • 必修科・・・・ 修身 読書 作文 習字 算術 地理 歴史 理科 図画 唱歌 体操 裁縫 (女子)
明治32年 町立明和尋常小学校開校 岩淵町大宇下1924番地西蓮寺 田中代用小(廃校)を仮校舎
児童数毎年膨大の一方 慢性の教員不足 再び移動後の福寿院に仮教場 尋常科の一部
小学校令改正
明治18年の小学校令以来、学齢人口の増大に対する学校学級の不足、逆に親の教育への理解不足や貧困などによる就学率の不振、また学校の設備や経費負担の問題など、社会実情に即応して不就学を解消するために施行規則を制定した。以下
  • 尋常4年義務教育制の統一
  • 児童の就学を親権者の義務とすることを徹底
  • 心身的事情による場合は、就学の免除や猶予を認める規定
  • 児童の雇用者は就学機会を妨げてはならない
  • 授業料を徴収しない
  • 非宗教 など
明治32年岩淵町の就学率43%(男子49%女子37%)全国平均73%(男子85%女子88%)
明治33年 明治22年の町制(岩淵町成立)を反映して町議会決定で、
東京府北豊島郡岩淵町立岩淵尋常高等小学校と改称
明治34年 稲付に分教場(のちの三岩小学校)
教員不足の解消のため北豊島郡費によるに教員養成所設置。4年制の高小卒業者にわずか6ヶ月講習して。つまり15歳より教壇に立てた。
このころ 新聞小説「大菩薩峠」の作者中里介山(弥之助)本校で教鞭 稲付静勝寺に下宿
本校舎の建設
赤羽小は宝幢院仮住い(当初5年の予定)が永きに渡り、借受け中に規模が膨張して二階建校舎にまでしてしまった。岩淵町はその間建設適地を渉猟していたが、M32.7に大字赤羽246に敷地を求めて町議会で決定して申請し許可を得た。しかしその後予定していた用地取得が進まなかったことと、町民多数の了承が得られなかったとして、M33.4 再度、町長は大字赤羽字長島210(現在地)への用地の変更を願い出て再認可されている。この位置変更については、当初の予定地は変更地よりもわずかに北側、今の三角公園を中心にしたあたりであるが、それでも袋岩淵は、3村の中心からはずれ、とりわけ袋村からの通学利便には大きな不利益があるとして、町議会は大いに紛糾し、残されている反対声明文や議決事項の執行催促文の資料から、町が二分三分されたの感が覗える。監督官の返書にも狼狽が表れている。赤羽小から岩淵小への校名変更の際も議事がすんなりいってなく、その強行あたりから町ごとの感情的なもつれが、尾を引いたのかもしれない。北豊島郡長の知事宛の書簡には町分裂の危機さえあったように綴られている。
こののち、私立校を廃して岩淵小を中心にした本校分校制に移行してゆく。
明治35年 現在地に校舎完成 12月14日を開校日として今に至る開校記念日 児童516名
東京府北豊島郡岩淵町大字赤羽字長島178
開校記念日の事
昭和5年発刊の「岩淵町郷土誌」によると、岩淵尋常高等小学校の創立時に関する記録は町では焼失してしまっていたという。わずかに、M8.1〜M11.11まで戸長(現在の区長の職)を務めていた小田切重路が家内に所蔵していた公文書類の中、明治9年10月9日の日付の書類に荒川学校豊川学校赤羽学校の3校の名が見えるという。すなわち昭和5年当時には、赤小の創立年月日は不祥であり、少なくとも明治9年10月9日以前には存在していたという程度しか判っていなかった。そこでやむなく、自有の敷地に校舎を持った明治35年12月14日を開校日として今に至る開校記念日と制定しているものと思われる。詳らかになったのは、戦後東京都が公開した公文書資料によるものであろう。

【写真】 明治35年創建当初のものと思われるが、翌年赤羽大火に見舞われて焼失し、すぐに同じ基礎の上に同型の校舎を再築している。そののちの写真かどうかわからない。

(大正七年のこと)
『赤羽駅(現在の位置より川口寄りにあった)を降りて南へ暫く歩きそれから左へ曲って真直ぐ行った所に正門があった。門といってもそまつな木の角柱が建てて有るだけで「北豊島郡岩淵尋常小学校」と書いた看板が掛けてあった。この門から約130m程度真直に進んだ所が玄関である。門から玄関までは2列に敷石が敷いて有った。それから玄関の手前20m位の左側には一寸した植込みがあってそのなかに小さな祠があった。いやこれがご真影の奉安殿である事は後でわかった。 ・・・校舎は何れも平屋建で電車のように一列に並べられてコの字型に配置されてあった。・・・校舎の裏は広い田圃で春ともなれば夜な夜な蛙のコーラスを聞く事が出来、夏の夜は蛍の飛び交うすばらしい環境であった。』池沢一志先生 赤羽小学校100周年記念誌「開校百年のあゆみ」より

稲付分教場を本校に合併 神谷分教場を明和小学校に合併
明治36年 6月4日 赤羽大火 赤羽小建築後半年で焼失 再び周辺寺院を仮校舎に利用
東京府の公立小学校不足 いまだ学齢児童の6分の1しか収容できず
明治37年 日露戦争開戦
国定教科書はじまる
明和校(元田中代用小→町立明和尋常小)を廃止して下分教場とする(のちの二岩小学 校)
明治38年 12月 赤羽小 校舎再築完成 同窓会設立
日露戦争終結
明治39年 このころ軍都赤羽では、式日などに軍士官が列席するのを常とした。
各町村は、苦しい財政の中で校舎の新築改築増築移転を相次いで進めた。
都市化による就学児童の増加 また貧困階層の不就学児童の増加
公教育体制拡充強化のため、私立学校の淘汰。教員(訓導)数不足

明治39年の散歩道
明治40年 小学校令改正 尋常科義務教育が6年制になる 高等科2年
明治41年 7月 校舎増築 小山新七ほか9名長年学校備品寄贈ありにより表彰
明治42年 学校の行事
小学校の年度は4月1日より3月31日までであり、明治32年の改正小学校令から細かな規則がなされた。次に王子小学校の資料から当時の一般的な学校の年間スケジュールを 模索してみる。 明治時代のものなので昭和になると天長節などは変わる。
  • 4月 1日 始業式 入学式
  • 4月 3日 神武天皇祭 休業
  • 5月中旬 遠足
  • 5月27日 海軍記念日 訓話
  • 5月28日 皇后陛下(明治)御誕辰 休業
  • 8月 1日 夏季休業 8月31日まで
  • 9月 1日 第2学期
  • 9月 秋季皇霊祭 休業
  • 10月17日 神嘗祭 休業
  • 10月中旬 父兄懇話会
  • 10月下旬 運動会
  • 11月 3日 天長節(明治)祝賀式 明治以後は明治節 昭和の天長節は4月29日
  • 11月23日 新嘗祭 休業
  • 12月25日 冬季休業 1月7日まで
  • 1月 1日 新年四方拝賀式
  • 1月 8日 第3学期
  • 1月30日 孝明天皇祭(先帝祭) 休業
  • 2月11日 紀元節祝賀式
  • 3月 3日 学芸会
  • 3月10日 陸軍記念日 訓話
  • 3月 春季皇霊祭 休業
  • 3月25日 修業式 卒業証書授与式
ほか靖国神社 明治神宮の大祭、身体検査などが折込まれ、各校の創立記念日と地域祭礼日が独自休校、3月3日 5月5日は半休など。
このうち四方拝(元旦祭)、天長節、紀元節は、のちの明治節も加えて四大節として国家的な行事であった。教育勅語の発布(M23)以来、小学校にも式典挙行を課して、厳粛な式進行によって地域の住民ともども天皇中心の国体と「忠実ナル臣民」を教育する礎とした。
  • 以下、式典の要領
    • 国旗掲揚
    • 君が代合唱
    • 御真影開帳礼拝
    • 学校長 「教育ニ関スル勅語」奉読
    • 学校長訓辞
    • 来賓 陸軍士官祝辞
    • 各祭日に相当する唱歌を合唱
帰りには「御食わし(多くは紅白饅頭か菊を型取った紅白のあん入り打ち菓子)」をいただけた。
明治43年
明治44年
大正元年
大正2年 明治34年当時赤羽小で教鞭をとっていた中里介山 『大菩薩峠』を都新聞に連載
大正3年 12月増改築
大正4年
大正5年
大正6年 進学学習塾「静観書院」八幡神社下 宮司朝日重光 重康
朝日重光はM13赤羽小卒 M18より赤羽小教鞭 本科正教員免許 岩淵町学務委員
大正7年 国定教科書「ハナ ハト マメ マス」
大正8年 1/11 岩淵商工補習学校 校内に設置
小学校卒業者対象 夜間2時限授業2年制 修身公民 国語 外国語 算術 商業
大正9年
大正10年 5/28敷地拡張 二階建て12教室新築 敷地約4000坪 建坪800坪
児童数1,957 学級数33 職員数35 この年まで1町1校制
のちの校長上野庸男氏赴任

大正10年の散歩道
大正11年 受験戦争が社会問題化
尋常小6年を終了してのち、高等小に進学、府立中学校 高等女学校あるいは私立の中学校や師範学校への進学、または就職(小僧奉公か女中)という進路があった。進学熱はこの頃から盛んであり、当時の難関は府立四中(戸山高校)、五中(小石川高校)、府立第一高女(白鵬高校)、第二高女(竹早高校)などとされた。資力のある家庭の児童に限られ、進学希望者は2割程度であったが、6年生になると放課後や冬休みに学校で補習授業が行われたり、このころすでに「試験地獄」という言葉も生れたほど受験競争が加熱した。日曜日には公開模擬試験が行われ、青山会館や水道橋の日大などが常設会場だったという。学習塾も増え、受験生は9時過ぎに帰宅するなど今と変わりない状況だった。しかし学力よりもさきに家庭の資力の方に希望の前提があり、児童たちに現実的な歪みを生じさせたものと思われる。
大正12年 5月 下分教場を第二岩淵尋常小学校として独立(二岩) 大字下字立長978
9月1日 関東大震災被災 職員室を含む1棟倒壊1棟半壊 赤羽地区は火災発生せず
都心部からの多くの避難民が流れ着いて校庭に仮泊
このときの赤羽の混乱した状況については室生犀星『杏っ子』の初めの部分に詳しく 描かれている。岩淵の小田切家も登場する。
10/1授業再開 震災避難児童の仮り入学183名
文集「青空」第1号
大正13年 6/30二階建て12教室竣成

震災の影響

震災避難民のための避難施設、あるいは都心部の住居を失っての転入者の数は日を追って増加し、滝野川から王子と徐々に郊外へ向かって人口急増が進んできて、岩淵町も飽和状態となりました。加えて地元のおもだった工場が倒壊閉鎖したり、町の産業が停滞して失業も増えて町の税収が逼迫するなかで、学童数の急増は学校経費に危機的状況を生みました。岩淵町長藤崎正義は小学校の授業料徴収に踏切り許可を申請しますが、王子町も滝野川町も同様に申請しました。(尋常科30銭高等科1円20銭13年限り許可)この窮状は昭和10年頃まで続き、やがて昭和恐慌へ巻き込まれてゆきます。
児童数2,150 学級数35
大正14年 5月 二階建9教室増改築
昭和元年 7/1 岩淵青年訓練所 校内に設置 週2回4時限授業4年制
元区長 小林正千代教鞭 昭和10.3まで
12/14 創立50周年式典
昭和2年 震災後の転入者による人口急増 学童数増加 児童数2,539 学級数46
学校学級不足 午前午後二部制授業解消できず
昭和3年 4月 稲付分校独立 第三岩淵尋常小(三岩小) 岩淵町大字稲付字梅ノ木1214
5月 大袋に袋分校の分教場設置 (のちの袋小)袋1591 浮間からの3年生まで受入れ
昭和4年 このころの岩淵尋常高等小学校の郊外教授(遠足)の行き先は
  • 1年 2年・・・ 岩淵水門 川口善光寺 大宮公園
  • 3年 4年・・・ 豊島園 村山公園 上野公園 金町浄水場と柴又帝釈天 鶴見花月園
  • 5年6年高等科・・・日光中禅寺湖 長瀞 土浦 成田 横須賀軍港 など
昭和5年 9月 袋分校独立 第四岩淵尋常小(四岩小) 岩淵町袋47
岩淵尋常高等小学校後援会設立 初代会長石井気十郎 2代田口安蔵 3代浜野清吾
現応接室の写真額の列はここから始まる。
昭和5年
明治の末年頃より、東京区部にあった工場郡が続々郊外郡部に移転して来てそれに伴う労働人口の移入増加が始まり、更に関東大震災以後には家を失った区部の住民の転入が相次いだ。工場労働者たちには貧困による不就学者が多く、尋常夜学校や青年学校を設けて、また工場の寮などに赴いて、このころ小学校教師たちは昼夜となく成人にも初等(尋常)教育に勤しんだ。
昭和6年 岩淵尋常高等小 赤羽143 瓦葺二階建 校庭1248.95坪 尋常1463名 高等346名
(たびたび番地表記が変るが、多くの寄付者の土地が合筆されないため。場所は同じ)
【写真】『門を入ると右手に大きな柳の木があり、門から玄関まで、これも花崗岩の敷石が2列に並んでいて、登下校にはこの上を通ったものだ。校舎も現在位置と殆ど変っていない。中央に木造2階建8教室、それとコの字型にたたきを渡って木造2階建7教室と8教室が続いていた。裏側にもう一並び平屋建もあった。玄関の左側に二宮金次郎の勉強姿の石像が、右側の樹木の中に奉安殿が安置されてあった。今も校舎は木々の緑に包まれているが、その中で東側に繁る椎の古木が今尚当時を語りかけてくれている。』宮下正行先生
【写真】赤小の奉安殿
ともに「開校百年のあゆみ」赤羽小学校100周年記念誌より
昭和7年 10月王子区成立 東京市岩淵尋常高等小学校
昭和7年の散歩道
昭和8年 第二岩淵尋常小に神谷分校
国定教科書「サイタ サイタ サクラガ サイタ」
昭和9年 4月 二部教授解消のために高等小学校部分を分離 「岩淵高等小学校」 王子区志茂町1丁目 のちの赤羽中
町制を廃止して区制に変ったため、岩淵町と赤羽町は同格となり、王子区赤羽町所在 ということで
東京市王子赤羽尋常小学校と校名変更
区会の議決によったが、岩淵町民の猛反対があり、「第一岩淵尋常小」とするよう、岩 淵住民による陳情書が残されている。
昭和10年 8月二宮金次郎石像 台座に『勤倹力行』 王子区青年団赤羽分団より寄贈
11月 第二岩淵尋常小から神谷分校独立 神谷尋常小(神谷小) 王子区神谷町1-567
昭和11年 創立60周年記念行事
昭和12年
昭和13年 1月岩淵尋常小創立 王子区岩淵町1-481 合わせて尋常夜学校設置
昭和14年
昭和15年 1月清水尋常小 三岩小より独立 十条仲原4-16 1月稲田尋常小創立 稲付2-195
昭和16年 国民学校令
4月 戦時下教育の改革として、小学校を国民学校と改称
明治19年以来の「身ヲ立ルノ財本」としての「普通教育ヲ得セシム」を目的とした小学校令を廃止して、皇国臣民精神の育成と敢闘体力の練成を目的に「克ク皇国ノ責ニ任スベキ国民ノ基礎的練成ヲ完ウシ将来ニ於ケル学制ノ根底タラシム」とした。現場教師に 「教育報国」の理念を課す一方、児童は銃後の守りを担う「少国民」とされ、教科を国民科、理数科、体錬科、芸能科、実業科の5科とした。
新東亜秩序建設を支持する国民世論からは、非常に肯定的に受け入れられた。
東京府東京市王子赤羽国民学校と改称
国定教科書「アカイ アサヒ」
12月8日 太平洋戦争開戦
昭和17年 4月18日土曜 12:30 赤羽初空襲 B25
集団登校 防空演習 待避訓練 行軍遠足 勤労奉仕
第四岩淵尋常小(四岩小)袋分校独立 袋国民学校 王子区袋1丁目
昭和18年 校庭舗装 卒業生累計1万名
【写真】 大運動会の様子。右上、校舎の屋根の上にやぐらが見える。これがなんと赤羽一帯の防空拠点。敵機が来ると警報や半鐘を鳴らす。ただそれだけ。あとは消火活動指揮。
防空警備のため2101部隊教室に寄宿




7月 東京都制 東京都市立王子赤羽国民学校と改称
8月 上野動物園の猛獣毒殺指令
9月 学徒勤労動員 女子挺身隊
10月 第1回学徒出陣
神宮外苑で壮行会
昭和19年 3月縁故疎開奨励 開始
当時東京都長官は疎開を「帝都学童の戦闘配置」と表現した訓辞
強制集団学童疎開発令
夏休み中だが、町、学校、後援会をあげて学童疎開の準備や募金
8月9日 赤羽小第1班 赤羽駅出発 渋川駅着 群馬県群馬郡伊香保町
王子赤羽国民学校 集団疎開先 19年8月末現在
群馬県伊香保町 3年生から6年生まで。収容基準一人当たり1.1畳として
  • 大森館 ・・・・・・19名
  • 青山旅館 ・・・・32名
  • 金田屋・・・・・・ 50名
  • 丸本旅館 ・・・・69名
  • 立花屋 ・・・・・・29名
  • ふじのや ・・・・104名
  • 叶屋 ・・・・・・・・37名
  • 油屋・・・・・・・・ 72名
  • 福善旅館 ・・・・54名
個人荷物一人当たり八貫目以内 (貨物車別送にて)
以下準備品例・・・・ 掛布団1 敷布団1 敷布1 枕1 寝巻 下着 シャツ ズボン 猿又 (男) ズロース(女) 靴下 足袋 腹巻 モンペ 防空頭巾 食器 手拭 塵紙 歯刷子 歯磨粉 水筒 コップ 雨具 通信用紙 石鹸 布巾 雑巾 マスク 糸 針 櫛(女) 古新聞 下駄 運動靴 教科書一揃。また、配給食料の米 味噌 塩10日分
学園生活の一例 6:30起床 点呼 駆足訓練 朝礼(国旗掲揚 皇居遥拝 神宮遥拝 御歌奉唱) 国民体操 行進訓練 乾布摩擦 勤労奉仕 海ゆかば斉唱 食事行(ぎょう) 鍛練行 清掃行 19:30就寝消灯
20年3月には伊香保町人口飽和食料不足のために更に山奥に再疎開開始。
昭和20年 戦時教育令 学業の停止 校舎には軍隊が駐留し、校庭には防空壕や貯水槽
2月25日日曜 8:30 赤羽空襲 B29
4月13日金曜 23:00 赤羽空襲 B29
4月29日 戦局悪化によって1,2年生も疎開開始。群馬県勢多郡黒保根村の寺などへ。
なお貧困病気などで残された残留児童70名
8月10日朝 赤羽空襲 B29 100機 P51戦闘機 50機
8月15日ポツダム宣言受託 敗戦
10月20日より順次疎開解除
東京都は都内の惨状を回復してからと21年まで待つ意向だったが、父母の要望が強くて早めた。
昭和21年 12月創立70周年記念 校歌および校旗の制定
【写真】
戦時教育部分を墨で塗りつぶした教科書「黒塗り教科書」で勉強
昭和22年 北区成立により 東京都北区立赤羽小学校と改称
学校給食始まる
岩淵中 赤羽中 北中 稲付中開校
PTA創設 初代会長五十嵐多喜蔵氏
六三三四制実施 9年義務教育 男女共学 新制高校発足
児童福祉法 15歳未満の児童を労働者として使用してはならない
昭和23年 国会で教育勅語失効決議
昭和24年
昭和25年 9月小学校完全給食
PTA2代会長山口弘志氏
昭和26年
昭和27年 第17代校長 上野庸男氏
昭和28年 当用漢字新かなづかい採用
PTA3代会長川崎勇氏
昭和29年 文集「青空」戦後再発刊
昭和30年 八幡小 29.4袋小分校を経て独立
昭和31年 PTA4代会長北島義彦氏
昭和32年 1年生上野動物園で インドのネール首相歓迎
12/5 鉄筋講堂完成 157.3坪
12月14日創立80周年記念式典
児童数1,583 学級数29 卒業生12,066
昭和33年 志茂小 30.6二岩小分校を経て独立
昭和34年 PTA5代会長山口弘志氏
7/19プール完成 古橋広之進氏を招待して開設式
みどりのおばさん配置
テレビ1台 区より配給
北園小 32.6袋小分校を経て独立
昭和35年 心身障害学級設置
PTA6代会長北島国子氏
昭和36年 第18代校長 鈴木義正氏
PTA7代会長石渡増次氏
7月わかば会発会 会長川崎勇氏
木造校舎解体工事開始
昭和37年 5/23鉄筋新校舎一期工事完成 北側3分の一部分
赤羽台西小学校開校 学区域変更
児童数937 卒業生累計13,347名
昭和38年 1/7鉄筋新校舎二期工事完成 中央部分 【写真】2月時点 階段スペースの先が第1期、階段含む右側が第2期工事完成
12月鉄筋新校舎三期工事完成 南側残り部分
12/14新校舎落成式を兼ねて88周年記念式典
昭和39年
昭和40年 桐ヶ丘北小 39.4桐ヶ丘小分校を経て独立
昭和41年 学童保育 赤羽子供クラブ開設
昭和42年
昭和43年
昭和44年
昭和45年 難聴学級設置
昭和46年 同窓会創立 会長川崎勇氏
昭和47年 心身障害学級校舎完成 体育館改築完成
昭和48年
昭和49年
昭和50年 12/14 開校百周年記念式 記念誌発行
児童数568 卒業生累計14,976名
昭和51年 赤羽小学校開校100周年
平成13年 現在125歳





MY HOMETOWNとありますように、当初は、「赤羽」の来し方について文書として取りまとめた後に、その派生的な意味合いで赤羽小学校史を上梓する予定でした。しかし、赤羽(旧岩淵村)の由来については資料もなかなか膨大であり、半ば現代史でもありますためいろいろと突合確認作業にも時間と神経を費やして、遅々として進まないまま日を送ってまいりました。しかたなく、比較的事象が確定している赤羽小学校の歴史のほうに先に手を染める事になりました。

赤羽の歴史を語るのにはやはり赤羽小学校を語らなければなりません。昭和5年に刊行された名編ともいうべき「岩淵町郷土誌」には当時の赤羽の人々の生活する姿が実にVIVIDに描かれていると思いますが、なかでも、当時通年において町歳費の約50%は小学校経費に費やされていた、という事実はどれほどの意味を語っているのかと思い巡らします。確かに震災後の都市化が進み、人口(学童)増大に追われていた時代ではありますが、楽ではない暮らしの中の町税の半分を子供たちのためとしていた当時の人々の、現代人と違った人生観未来観がその一項からも覗えます。昔、名望家たちにとって学校の役員に携わることは何よりも名誉でした。運動会や学芸会は子と親のみならず、学校を取り巻く町全体の関心事でありました。「子供たちの楽しげな顔」が町社会の喜びであった頃がなにやら遠くに感じられます、素朴な健全さに羨望も感じます。

年表形式になっていますが、年については複数の資料によって違う場合があります。議決や許認可されたとき、施行されたとき、とかtargetによるズレもありますがが、やはり、正史の編纂が待たれます。

お断り
のちに発表するであろう「赤羽史」にも共通しますが、この項でいう「赤羽」とは必ずしも行政上の町範囲のみではなく、多くは【赤羽エリア】・・・おおむね赤羽駅利用地域を指しています。